タイ(前編)~チェンマイ到着。はじめましてカオソーイさようならアルコール~

12月 25th, 2011

固い座席のアームレストを枕にまったく熟睡できぬままタイ鉄道北部線の夜行列車は翌朝チェンマイ駅に到着した。
駅を出ると出待ちをしていたとあるトゥクトゥクに口説き落とされ、チェンマイのメインスポットである旧市街に向かってもらった。

チェンマイ。四方を2000m級の山々に覆われたタイ北部最大の都市であり、静粛で歴史深い古都。寺院も多くその街の風格から日本では「タイの京都」とも言われている。ほぼ正方形の堀で囲まれた旧市街はチェンマイの中心地で活気に満ちているもののバンコクをはじめ南部地域に比べると比較的ゆったりとした時間が流れている。
3年前にタイに足を運んだ時はパンガン島で連日パーティーアニマルと化していたこともあり、今回はここチェンマイをはじめとする北部エリアでのんびり過ごす事を僕は楽しみにしていた。

トゥクトゥクは僕を旧市街城郭にある5つの城門のうちの一つ、ターペー門で下ろしてくれた。レンガ造りの門をくぐり旧市街に入ると僕はいつもの癖で人気(ひとけ)のないさびれた裏路地に吸い込まれるように入っていった。するとすぐにV.I.P.Houseという名のゲストハウスが左手前方に見えてきた。
VIPらしさを全く感じさせないオンボロな外観、もちろん料金もノンVIP、トイレシャワーは共同だがツインルーム/Wi-Fiフリーで一泊破格の150THB(約420円)。北部エリアは物価自体も南部より多少安いらしい。僕はこのV.I.P.Houseで3日間滞在する事に決めた。部屋は一人では持て余すほど広くツインベッドも無駄にゴージャスな気分を味わせてくれる。しばらく寝転がりながらMacを開いてネットサーフィンしていると僕はふとお腹が減っている事に気がついた。そういえば昨晩の列車の中で支給されたロールパンを最後に今日はまだ何も口にしていない。
チェンマイのグルメ情報をググってみると「カオソーイ」という名のタイ北部の郷土料理がずらりと検索結果一覧に並ぶ。
一言で言えばカレーラーメン。ココナッツミルクをふんだんに使ったカレースープにゆで麺に鶏肉、野菜がはいっており、カラッと揚げた麺がその上にトッピングされている。ココナッツミルク好きの僕にはかなり気になる一品。たちまちお腹と頭がカオソーイでいっぱいのパブロフの犬になってしまった僕はさっそくフロントのオーナーにオススメのお店を聞いてみることに。するとオーナーの女将さんは「ラムドゥアン」という創業60年以上の老舗の有名店を教えてくれた。旅人はもちろん地元民の舌をうならせる老舗中の老舗。ここ旧市街から新市街方面に徒歩で約1時間ほどの場所にあるらしい。トゥクトゥクかソンテウ(※乗合タクシー)でいったほうがいいと女将さんは言っていたがもちろん僕はお決まりのスケボーで向かう事にした。

旧市街はもちろん周辺地域も交通量は多く、無免許運転当たり前の粗悪な交通マナー、そして整備の行き届いていない古いアスファルトはまったくスケボー移動には向いてはいなかった。結局ほとんど歩るく羽目となり一時間近くかかってようやくお店に到着した。いびつなカタカナで「カオソーイ ラムドゥアン」と書かれた看板からも日本人旅行者の人気の高さを伺えたが、その時の客のほとんどは地元民だった。
はじめて食べるカオソーイは「最高」の一言。これまでタイ料理ではグリーンカレーがダントツのNo.1だったがカオソーイはあっけなくその座を奪ってしまった。ココナッツミルクが効いたコクのあるスープに二種類の麺が入ったカレーラーメンは中毒性がありそうなほど美味い。その後チェンマイ滞在中、僕はここラムドゥアンをはじめ様々なお店でカオソーイを食べまくった。

腹も満たされ帰り道は散歩がてらのんびりとゲストハウスにもどると僕は兼ねてから楽しみにしていた寺院巡りの計画を練る事にした。チェンマイには約300もの寺院があり、堀に囲まれたここ旧市街の中だけでも120を超しているらしい。さすがに全部を見て廻る事もできないがフロントにおいてあった旧市街マップに掲載されている有名寺院十数カ所を廻れるだけ廻ろうと僕はスケボー片手にゲストハウスを後にした。

チェンマイ到着時に降っていた雨はすっかり上がっていたが、今度はジリジリとした力強い太陽が体の水分を奪っていく。ちょうど雨期の終わりを迎えていたチェンマイは多少ジメジメと蒸し暑かったもののバンコクやマレーシアに比べれば格段に過ごしやすい。とはいえ、長時間日にさらされるとだんだん意識がもうろうとしくる。移動しながらふと目に留まったとある出店の冷蔵庫の中のビール。キンキンに冷えていそうなそれは僕の大好物の“シンハー”だった。
思わず手に取り、支払いを済ませると僕は店の椅子にどんと腰を下ろした。おもえば東南アジアへやってきてからは慌ただしい移動が続きゆっくりとビールを飲む時間も取れなかった。久しぶりのアルコールに胸が躍る。

「プシュッ」

栓抜きで王冠を外す瞬間の至福の音にテンションもアガる。
天気も快晴、のんびりとした午後のチェンマイ。寺院巡り前の男の一杯。
久しぶりに口にしたビールは最高だった。全身の力が抜け、意識もろとも一気に椅子に沈み込んでいく。
脳内で急激に広がっていくアルコールエフェクト。久しぶりに呑んだせいもあってアルコール耐性がリセットされていたらしい。“酔い”の感覚はすぐに全身を駆け巡り、思考回路が徐々に変化していく。

”なんだかすべてがどうでもいい”

なにもかもが面倒くさく感じられる。ここでこのままずっとダラけていたい。これから楽しみにしていた寺院巡りに向かうというのに。
どうやらやりたいことや目的がある時に酒は呑むもんじゃないらしい。気持ちが雑になり自分を真芯で捉えられなくなる。オーストラリアで受けた10日間のヴィパッサナー瞑想でアルコールが禁止されていたのはこの事だったのか。はたして今の自分に酒というものは本当に必要なのだろうか?
徐々にこの地に足の着かないような心地のよい”酔い”の感覚もなんだか急に安っぽく感じてくる。

この事がきっかけで僕はその後酒をやめた。この旅から一年が経ち、こうして旅の記録を執筆中の今もそれは続いている。日本ではどうしても人や社会でのコミュニケーションで「飲み会」というものが必須ファクターとなりがちだが、僕は呑んでも最初の一杯くらいでそれ以上の欲求は湧いてこない。適度な酒は体にいいと言われるが多かれ少なかれアルコールが体に与える負担はこの体が僕に教えてくれる。
もちろん酒自体は嫌いではないし否定している訳でもない。日本固有のカオスなストレス社会の中でそれを忘れさせてくれる一つのアクティビティであるという事もわかるし、呑めば旨いと感じる。友人と過ごすそんな時間もかけがえのないものだが、ぼくにはもうアルコール効果は必要がないのだと思う。外部からかかるストレスに左右されない自分を保持できれば精神的バランスを保つ為の飲酒は必要なくなる。シラフの方が人生は何倍も楽しい。自然とそう感じるようになっていったのだった。
その後僕はふらつきながらも日が暮れるまで旧市街寺院マップ片手にスケボーで寺を廻り続けた。最初の方はその風格ある寺の佇まいに感動の連続だったが5軒6軒と廻っていくうちに建築様式のほぼ変わらない似たり寄ったりな寺院に徐々に倦怠感を覚え、そこに疲労感もプラスされてくるとマップに記された残りの寺数をムキになって減らしていくという当初の目的を完全に見失った見当違いな寺巡りになってしまった。

その夜、僕は酔いまかせの無謀な弾丸寺巡りで疲れ果てた体をゆっくり休めようとベッドの上で横になっていたが、チャンクラーン通りで毎晩開催されているというナイトバザールが気になってつい出かけてしまった。
ゲストハウスから徒歩で約30分と、けっして近くはない距離だったが、行ってみるとTシャツなどの衣類から銀細工、アクセサリー、様々な手工芸品が歩道両側に所狭しと設営された露店にずらりと並び、なかなか見応えがあるものだった。ツーリストが多く活気づいているのはカオサンロードと同じだがやはりどこかのんびりとした雰囲気がここにはあって、マレーシアのコタバルほどではないが強引な客引きもなく廻っていて心地がいい。
おみやげ品には興味はないが昼間のスケボークルージングでほとんど空になっていた胃袋を満たすべくフードコートを物色しているとそこにはまたもカオソーイが。一片の迷いもなく即注文、あっという間にたいらげると同じ店でグリーンカレーも売られている事に気づいた。自分的タイ料理ランキングでNo.2に降格してしまったグリーンカレーだったがここはやはり食べておかなくてはと再び注文すると、まだ食うのかと言った感じでカレーをよそってくれる店のおばちゃんとその後すっかり仲良くなった。カオソーイとグリーカレー。2つあわせても日本円でたったの180円。東南アジアの料理は旨い上に安い。食べ過ぎに注意していかないと簡単に肥満化していってしまいそうだ。

店のおばちゃんと雑談しながらグリーンカレーを食べていると隣の席で座っていた白人が声をかけてきた。彼の名はクリス。オーストラリア人だ。久しぶりのオージーに僕のテンションははねあがりこれまでのオーストラリアの旅話を彼に話した。
クリスはもう何年もここチェンマイに住んでいるらしい。流暢なタイ語で店のおばちゃんと会話している。ビザや仕事に関しては公には言えないようなやりくりをして長期滞在しているそうで、相当ここが気に入っているようだった。
宴もたけなわになってくると、クリスは「いっぱい付き合えと」僕をBARに誘ってきた。禁酒を決め込んだばかりだったが、せっかくの出会いと彼の好意についていくことにした。
ちょうど新市街と旧市街の間くらいにあるブルーやピンクの怪しげな照明が灯る騒がしいBAR。クリスは常連のようだった。彼はそこに溜まっていたイケイケなタイ人ギャル達を巻き込んでビリヤード勝負をしようとふっかけてきた。
クーランガッタのシェアメイトだったクレイグがそうだったように酒もビリヤードも国民気質的に強いオージーに勝てる訳はなかった。酒は浴びるように呑まされ、負けるごとに酒を奢らされ、意識が朦朧とする中このチェンマイ初日のアングラな夜は過ぎていった。

翌日昼近くに目が覚めると思った通り酷い二日酔い。とりあえず僕はフロントにコーヒーをオーダーしにいった。半分死人のような状態でぼーっとロビーのソファーで座っているとどこかの部屋からドライヤーの音とともにJ-POPな鼻歌が聞こえてきた。
本人は聞こえてないつもりらしいがV.I.P.Houseの壁は薄い。長時間かけ続けるドライヤーの音にその場にいた従業員、そしてオーナーの女将さんが徐々にピリついてきているのがタイ語のわからない僕にも伝わってくる。
ようやくドライヤータイムが終わり部屋から出てきた彼女はやはり日本人だった。まさかこんな路地裏のボロゲストハウスで日本人と出会うとは思っていなかったのですこしうれしかった。出てくるなり女将さんはドライヤーのかけ過ぎを彼女にねちっこく注意をしている。コーヒーを飲みつつその光景をぼーっと見ていると彼女は僕に気づいて笑顔でこっちにやってきた。僕らは互いに挨拶と簡単な自己紹介を交わした。

彼女との出会いをきっかけに僕はこの一年間の旅で初ロマンスを経験することになろうとはこの時は想像もできなかった。

タイ(前編)~世界の車窓から”色情のバンコクにさようなら”~

12月 13th, 2011

生まれて初めての寝台列車。開け方の分らない座席上部に設置された大きなキャビネットは荷物入れではなく折りたたみ式のベッドだった。よく見れば側部には簡易ハシゴが備え付けられている。
座席は指定制で向かい合わせのシートにはマレーシア人の中年男性が座っていた。やさしい笑顔が印象的な彼とは些細な会話がきっかけで仲良くなり、その後バンコクに到着するまでのよき話し相手となった。3人の妻と4人の子供をもつモスリムの彼の話は僕にとってどれも非日常的で興味深く、彼にとっても僕のこれまでの旅話や日本での生活は面白く映ったようだった。

食事時になると乗務員のスタッフがメニュー表を持って巡回してくる。注文後しばらくすると、座席備え付けの簡易式のテーブルが組み立てられ美味そうなタイ料理が運ばれてくる。
どこまでも続きそうな広大な草原を眺めながら列車で知り合った異国の友人と旅話を交わしながら頂く食事は何にも代え難い贅沢だ。移りゆく車窓の景色を眺めながら食後に出されたやたらと甘いコーヒーを口にするとあらためて旅に出てよかったと思う。大荷物を脇にはしゃぐ子供達の世話に骨を折る親、静かに景色を眺める熟年夫婦、そして二人の世界以外は何も見えていなさそうな熱いカップル。様々な人や人生を乗せて走る列車の風景はまさにリアル”世界の車窓から”だ。

少し大きめの駅に停車すると車内に売り子のこどもやおばちゃん達が軽食やドリンク類を手に続々と乗り込んできた。かなり割高な車内メニューに比べ比較的リーズナブルな値段と地域によって変わっていく商品が魅力的だ。
夕食後しばらくして乗務員スタッフが座席を順番にまわり慣れた手つきで椅子席を次々とベッド化していく。頭上のキャビネットもあれよあれよとベッドにトランスフォーム。目の覚めるようなブルーのカーテンが取り付けられると車内の様子は一変、その名の通り立派な寝台車になった。一連の流れるような動きはまるでなにかのショーを見ているようにエレガントだった。
モスリムの彼は下のベッド。早々にカーテンを閉め切り一日5回の礼拝の最後の祈りをアッラーに捧げているようだ。神秘的な言葉がカーテン越しからかすかに聞こえてくる。
昔から2段ベッドだったら絶対上を取りたい子供だった僕がガタゴト揺れる車内で小さなハシゴを登っていくとそこには大人一人が横になれるほどのスペースが広がり、薄い敷き布団の上にタオルケットと枕が置かれていた。なんとか上半身が起こせるほどの高さしかなかったが、子供の頃マットレスを折って作った秘密のテント基地を彷彿させるその空間に妙に心が落ちついた。しかしカーテンの隙間からもろに入ってくる常時点灯の通路照明と手を伸ばせばそこにある天井クーラーの直射冷風でとてもじゃないが安眠する事はできなかった。結局その夜はアイマスクをして深々とタオルケットに潜り込み、寒さと戦いながら無理矢理眠りについたのだった。

翌朝目が覚めるとすでにモスリムの彼は起きていた。布団の上で足を伸ばしスッキリとした表情で窓の外の景色を眺めている。こういう事ができるのも下段ベッドの特権だ。次回寝台車に乗る機会があれば必ず下段ベッドを選択しようと慎重にハシゴを下りながら心の底で誓う。
しばらくすると昨晩同様スタッフが順番にベッドを座席に戻しに廻っている。その間にトイレにいったのだが便器の前に立った僕は目を疑った。
なんと便器の底から線路が見えている。つまり排泄物は直で線路にぶちまけられる仕様なのだ。水を使わないエコ仕様といっていいのかどうか解らないが、これからタイやマレーシアに行くことがある人はまちがってもタイ鉄道の線路の上で山下清的なマネはしないほうがいい。用を足しながらこのなんとも大胆というか壮大なシステムに東南アジアの本質を垣間みたような気分になったものだった。

昼前にようやく列車はバンコクに到着した。長いようで短かかった22時間の列車の旅は終わった。本当はこのままチェンマイに向かってもよかったのだが、さすがに体力的に厳しい。一日バンコクで休みを取ってから向かうのがベストだろう。下車駅であるバンコク最大の駅フォアランポーンの数駅前でモスリムの彼は下りて行った。これから親族に会いにいくという。もし機会があれば連絡をしておいでと紙切れに連絡先を書いてくれると僕らは固い握手を交わし別れを告げた。

フォアランポーン駅。巨大なアーチ上の天井の下には地元タイ人をはじめ様々な国の人々の活気で満ちあふれている。
陸の孤島のようなスンガイコーロクからやってきただけにこの喧噪感は逆に安心感を与えてくれる。さっそくトゥクトゥクを捕まえてカオサンロードに向かってもらうと僕は今夜の宿を探した。前回泊まったゲストハウスを尋ねてみるとキレイに改装されていたが料金もアップ、Wi-Fiは時間制の有料かつ部屋では使えないと言う仕様で別をあたる事に。僕のこの旅での宿泊先選びのポイントはリーズナブルな料金はもちろんだがそれ以上にWi-Fi環境が整っているかどうかが重要だ。
それは日本のクライアントとやり取りをしながらの旅であるためにいつ仕事の依頼がはいるかわからないからだ。たまに何も考えず全てを投げ出したいと思う瞬間があるが、収入を確保しながらだからこそ旅が続けられるというメリットはやはり大きい。長期間旅行する人の多くは予め日本で何年も働いて溜め込み、全てをリセットさせてから旅に集中するというタイプだろう。どちらにも一長一短はあるがこのスタイルを選んだ以上電波状況の把握と商売道具の死守に気をかけていく事が僕にとっていわば宿命のようなものだ。
ここカオサン周辺のWi-Fi事情は残念ながらそんな僕の旅にはあまり向いていなかった。どこも有料時間制で且つ部屋では使えないというようなゲストハウスばかり。重たい荷物を引きずりながらベストな宿を見つけるべく彷徨い歩いたが結局僕の基準を満たす宿は一つもなかった。いづれにせよ今回のタイのメインスポットはチェンマイをはじめとした北部地方。バンコクは単なる中継地点だ。明日にはすぐにチェンマイへ向けて出発する。たった一泊だけのショートステーなので僕はWi-Fiはロビーのみのとあるゲストハウスにチェックインした。
簡単に荷解きを済ませ久しぶりのカオサンロード散策に出ようとロビーに下りてくるとラウンジには日本人の旅人達が一つのグループのように固まって雑談していた。
外国でよく見る風景ではあるし久しぶりの日本人同士のふれあいも悪くないとは思ったが僕は彼らに軽く会釈するにとどめ、カオサンロード散策に出かける事にした。

3年ぶりのカオサンロードも相変わらず騒がしかった。様々な国の観光客でごったがえしている。日本人の姿も多い。思えばマレーシアのマラッカ以来だ。久しぶりに聞く日本語になんとも不思議な感覚が芽生える。またカップル率の高さにも驚いた。
思えばこの1年間、数日前マレーシアはメルシンで出会ったバスチケット売り場で働く地元の心優しいお姉さんが胸熱だったくらいでろくに恋の一つもしていない。
オーストラリアでは旅のほとんどを風呂も入れないような車中泊生活に費やしていたし、ここ東南アジアへ渡ってきてからも気ままな貧乏一人旅で風来坊な生活を楽しんでいる。しかし突然こんな場面に遭遇するとなんだか急に孤独感と人恋しさのスイッチが入ってしまう。旅で出会う喜びや苦しみをともにシェアできるパートナーがいたらこの旅はどんなに素晴らしい物になるだろうか。だが、一人だからこそ得られる経験や感情というものも当然ある。まぁ簡単にまとめてしまえば”成るように成る”。時が来たらそういう旅になるかもしれないし、ならないかもしれない。どちらでもいい。今を楽しもう。
そんな事を考えながら出店を廻っていると世界の国旗ステッカーを売っているお店に目がとまった。
今まで旅したことのある国や見た事もないような国旗、そしていつかは行ってみたい国々。ぼっと眺めているとふと一つのアイデアが浮かんだ。
僕は今旅をしている。どうせなら旅した軌跡を何かに残したい。この旅で訪れた国、そしてこれから訪れる国のステッカーをその国で一枚ずつ買っていこう。
そしてそのステッカーは実際にその国々で走ったスケボー、そしてその国で弾いたギターに貼付けていこう。旅が終わる頃には様々な国で受け取った数々の思い出がステッカーとともに刻まれる。僕にとっては替えの効かないプライスレスな宝物になるにちがいない。とりあえず既に廻ってきたオーストラリア、マレーシア、そしてタイのステッカーを買って僕は店を後にした。

徐々に日が沈み行くバンコク。カオサンロードも夜モードにはいるとあちこちでトゥクトゥクの客引きがヒートアップしてくる。
ナイトクラブ、怪しげなマッサージ、そしてゴーゴーバー。誰彼かまわずしつこく声を掛けまくる客引き達。相手が日本人だと解ると、
「ススキノー!」「マッサージ」「ヤスイヨ!」「カッコイイオニイサン!」とカタコトの日本語で煽ってくるが聞こえない振りをして素通りしようとすると
「ソンナノカンケネェ!」「ミヤサコデス!」というちょっと古めの情報でなんとか笑いを取ろうとしてくる。さらにアジノモト!ヤマモトヤマ!スズキムネオ!ととりあえず知ってる言葉を一通り叫んで客引きしてくる強引さと必死さにうかつにもジワジワくる。さすがはバンコク、当たって砕けろ的なエネルギッシュなパワーがここにはある。
小腹も減ったので屋台で適当に物色していると“カオニャオマムアン”というもち米のご飯の上にマンゴーを乗せココナッツミルクがかかっているタイの定番スイーツに目が止まる。
一言で言ってしまえばミルクのかかったマンゴーご飯。ゲテモノ的な組み合わせを見ると無性に挑戦したくなる性がここで花開く。食べてみると、マンゴーのとろける食感に餅米のモチモチ感。そしてドロッとした濃いココナッツミルクの甘みが絶妙なハーモニーを奏でている。素晴らしきB級グルメ。一発で虜になった。その後このカオニャオマムアンはマレーシアのバナナロティーに続き僕の東南アジアでのお気に入りスイーツに殿堂入りした。

晩飯はカオサンロードから一歩入った裏道にある地元人しかいないような屋台でタイカレーを注文、腹も満たされゲストハウスに戻ると昼間に買った国旗ステッカーをスケボーとギターに貼付けた。これからステッカーとともに沢山の素晴らしい思い出がこのギターとスケボーに刻まれていくのだろうと思うだけで生きる喜びが湧いてくる。
僕はしばらく部屋でミニギターをかき鳴らしながら翌日からのチェンマイに思いを馳せていたがいつの間にか深い眠りに落ちていったようだった。
翌朝チェックアウトを済まし荷物をロビーに移動させ、有料のWi-Fiを使ってチェンマイについて調べていると昨日ロビーで雑談していた日本人のバックパッカー達が声をかけにきてくれた。一通り挨拶を交わし僕はこれからの旅プランについて話をすると、タイ北部を廻ってきたという何人かがいろいろな情報を教えてくれた。
話を聞いているとみなそれぞれ独自の旅をしていて面白い。世界一周中の新婚さんや中国のほうから徐々に南下してきたという女の子、インドにこれから戻るというドレッドの彼。先日日本からやってきたばかりの学生。
当たり前だがどれも自分とはちがう経験談で聞いていて楽しい。それにしてもここでもカップル率の高さが気になってしまう。バンコクへやって来てからというものこれまでしてきた気兼ねない一人旅にやたらと孤独感を覚えてしまう。さっさとバンコクを出て静かな北部へと旅立った方がよさそうだ。地球の歩き方も見せてもらいチェンマイに関して必要そうなページ、そして簡単なタイ語の日常会話例をiPhoneカメラでメモらせてもらうと彼らに別れを告げ僕は再びフォアランポーン駅に向かった。
ここからチェンマイはタイ鉄道北部線で約10時間ちょっと。スンガイコーロク〜バンコク間の22時間を考えればあっという間だ。明日の朝には着く。今回は安価な普通座席のみの三等車を選んだ。
深夜便だったが席はガラガラ。辺りを見渡しても数人ほどの客しか乗っていない。相変わらず冷房も強く座席は固く角度調整もほぼできないボロ車両、後方には客室乗務員のお姉さんがなぜか客と同じようにブランケットをかぶって寝ているよくわからないシチュエーションの中、深夜のタイ鉄道北部線はひっそりとチェンマイに向かう。

タイ(前編)~無知と恐怖とスンガイコーロク~

12月 5th, 2011

1時間ほどバスに揺られ僕はタイとの国境の街ランタウパンジャンに到着した。
降りるなりバイタク運ちゃんの乗ってけコールの洗礼を浴びる。
どうやらバス停から国境のイミグレーションまで歩いていくには距離があるらしい。昼過ぎということもあって初の国境越えの前に腹ごしらえをとバス停横にあった定食屋で軽くランチを済ませると僕は外で出待ちをしていたバイタクに飛び乗りイミグレーションへ向かった。

マレーシアの出国手続きは拍子抜けするほどあっけなく済んだ。パスポートを提示し、出国スタンプを押してもらったくらいでろくにペーパーワークをした覚えもない。僕以外に旅行者は皆無、地元民らしき人が数人いたくらいでとにかく閑散としていてた。
さぁイミグレーションを後にいよいよ国境越え。徒歩で橋を渡れば向こう岸はタイ王国だ。やはり旅行者は僕以外見当たらない。地元民の群れに混じって橋を渡っているとふいに昔見たヒッチハイクで世界を廻るバラエティー番組を思い出しテンションが上がってくる。
「あの橋を越えたらタイだよね?」
分っていながらも周りの人々に無駄に会話を振ってみる。
「そうだ。あれを見ろ」
隣を歩いていたおっさんがニヤニヤしながらに指差す向こう岸には”WELCOME TO SUNGAI GOLOK THAILAND(タイ・スンガイコーロクへようこそ)”とデカデカと書かれた看板がトリコロールカラーのタイ国旗とともに掲げられている。
さらにテンションがあがる。ボーダーラインを目の前に両手を上げて「タイラーンド!!」とガッツポーズを決め、ひょいっと飛び越えると周りの人々も一緒に盛り上がってくれた。
僕は彼らとのカタコトの会話を楽しみつつ列にまじって進んでいくと、とあるバイタクの運ちゃんが声をかけてきた。

「どこへ行くんだい?」
「とりあえずバンコクに向かっているんだ。最寄りの駅まで行ってほしいんだけどその前に手持ちの金をタイバーツに両替したいから両替所も寄ってほしい。お代はマレーシアリンギットしかないけど大丈夫?」
「あぁ大丈夫だ。じゃあ乗れよ。そんなに遠くないからすぐ着くよ」

最初に声をかけてきた彼を信用してそのままスンガイコーロク駅近くの両替所まで乗せてもらい手持ちのオーストラリアドルの一部をタイバーツに両替すると駅の正面まで送ってもらった。
さぁこの流れのまま一気にバンコクへ行こう。さっそく電車のチケットを買う。
ここスンガイコーロクからバンコクまでは距離にして約1150km、所要乗車時間は実に20時間と今までに経験のない長距離列車移動だ。ここではコスト的にも体力的にもバランスのいい2等寝台車を選んだ。人生初の寝台列車。しかも「世界の車窓から」でも取り上げられた事もあるタイ鉄道をリアルに体験できるチャンス。
ついつい舞い上がってしまう。チケットを無事ゲットし、駅方面に歩いていくと駅駐車場にちょっとした軽食系の屋台が並んでいた。美味そうな揚げ物やなぜか小さなビニール袋に入れて売られているフルーツジュースが目を惹く。支払いはマレーシアリンギットでもよいとの事だったので、財布に入っていた最後の小銭をここで使い切り、財布もスッキリお腹も満たされ鼻歌まじりに駅構内に入っていくとミリタリージャケットにライフル銃を構えた軍人につかまった。どうやら検問をしているようだった。僕に向かってタイ語でやたらと強い口調で話しかけているが何を言っているかさっぱりわからない。たぶん荷物チェックをしたいんだろうと荷物を軽く見せるとさらに勢いを増して詰め寄ってくる。どうしようもないのでこちらも強い口調で

「悪いがあんたが何をしゃべってるかまったく解らない。言いたい事があるなら英語で話せよ。」

そう言ってミリタリーの顔をまっすぐに見つめると、彼はしばらく黙った後片手を振って”もう行っちまえ”というような仕草を見せてくる。なんとも感じが悪い。
気を取り直し駅内の職員にバンコク行きの電車について聞いてみるとなんと最終便はもう出てしまったから今日は諦めろとそっけなく言われてしまった。時刻はまだ4時も廻っていない。
思い描いていた順風満帆な計画はあっけなく崩れ、しばらく放心状態に陥ったが何をどう考えてもここで一泊するしかない。自分以外に旅行者を誰一人見ないこんなローカルな場所で足止めなど食らいたくなかったが、とりあえず駅近で一番安い宿を探す事にした。
しかし、よっぽど旅行者が少ない街なんだろう、ほとんど誰に聞いてもろくに英語が通じない。身振り手振りの必死のジェスチャーでようやくアジア・ホテルという安ホテルを見つける事ができた。

小汚いボロボロのホテル。フロントにいる商売気のなさそうなオーナーが面倒くさそうに対応してくる。案内された部屋は窓もなく薄暗くカビ臭かった。
聞けばやはり宿泊客に旅行者は僕一人らしく他は地元民らしい。地元の人がどんな理由でここに泊まっているのか見当もつかないがなんとも言えない不安な気持が湧いてくる。

まだ暗くなるには早い時間だったのでとりあえず僕はスケボーで軽く街散策に出る事にした。予想通り観光者向けの見所などない地元民の生活圏ど真ん中といった感じの街だ。それ故にスケボークルージングしているよそ者の不審者に向けられる好奇の目線が痛いほどに突き刺さる。
一つ気になったのはマレーシアと違いWi-Fiポイントがなかなか見つからない事だ。マクドナルド的な外資系の店舗は皆無でゆっくりお茶ができるカフェも見当たらない。今夜の宿であるアジアホテルにも当然そんな設備などない。どれだけボロボロな宿でも、ほぼどんな場所であってもWi-Fiだけはしっかり繋がっていたマレーシアがすでに懐かしくも恋しい。いろいろ聞いて廻ると一件だけネットカフェがあるという情報を手にし、なんとか探し出したもののやたらと高額な料金設定となぜかiPhoneでは繋がらないという謎仕様にしかたなく店を後にした。とにかくなんでもいいからこの街の情報が欲しい。僕はその後しばらくWi-Fi設定画面を開きっぱなしで野良電波を求め街中を徘徊することになった。

それにしてもなぜこんなに旅行者がいないんだろう。国境の街であるならもっと旅行客がいてもいいはず。
徐々に暮れていく太陽を背になんとも解せない感情が僕の心の中で少しずつ大きくなっていく。人々の自分に対する目線もマレーシアにいた頃と比べて何かが違う。

しばらく歩いているとようやくiPhoneがWi-Fi電波をキャッチした。近くで腰を下ろせる場所を見つけると溜まっていたオンライン情報に目を通していく。
Skypeも立ち上げてみると東京でお世話になっているJINさんがオンラインになっていた。彼は銀座でデザイン会社をかまえる社長で僕が上京してから長らくアシスタントもさせて頂き、仕事の枠を超えて人生においてさまざまなモノの見方を教えてくれた心の恩師とも言える人だ。
心細かったので久しぶりにコールしてみると繋がりはしたものの「今ちょっと忙しいから5分10分したら掛け直すよ」と切られてしまった。では待っている間に改めてスンガイコーロクという街について調べてみようと様々なページに目を通していくと僕の感じていたこの街の違和感の正体が徐々にあらわになっていった。

「今年の春、テロによる爆発事件で負傷者」
「タイ南部で爆弾テロで列車転覆」
「外務省海外安全情報、渡航の延期を」
「国境地域の警察は信用できない」

次から次へと出てくるヤバそうな記事。仏教国であるタイとイスラム圏であるマレーシアの国境付近では常に宗教的な争いがあり、特にこの時期はタイ南部全体で治安が悪化していたのだった。
どおりで旅行客がいないわけだ。無知とは恐ろしい。僕は本当にここにいていいのだろうか?
そんな記事を見ているとどこからともなく3人乗りをした原付が数台近くにやってきた。こんな記事を読んだ後では、誰であれ危険人物に見えてしまう。どう考えてもまずい展開しか頭に浮かんでこない。10分後にかかってくる師匠のSkypeをあきらめ僕は逃げるようにホテルに戻った。

夕食時、フロントに食事はあるかと尋ねると案の定そんなサービスはないと一蹴されたのでしかたなくホテル近郊で飯屋を探す事に。できるだけ外には出たくなかったが腹が減っては戦はできぬ。とりあえず腹は満たしておきたい。しかし先ほどの記事のインパクトが大き過ぎてどこを見ても誰を見てもネガティブに映る。
ちょっとした屋台を見つけそそくさとご飯をかきこむと逃げるようにホテルに戻り、その薄暗い部屋の鍵を頑丈にかけ、机や椅子をドアの前に置いてベッドに横になった。
僕は完全に動揺していた。ただでさえ治安が悪く地元民さえピリついている中で無知でのんきな旅行者が派手に街をスケボークルーズ。宿泊しているこのホテルに旅行者は僕一人だけ。寝ている間に襲われたらどうする?こんなところでまだ死にたくない…。
さっきフロントで買ってきたビールのアルコール成分が僕の負の思考を煽りまくる。負の思考はさらに負を呼び連鎖を続け心を圧倒していく。
せめて僕以外の誰か一人でも旅行者がいてくれればこのカオスから抜けられる。息の詰まりそうな重い夜はなかなか僕を眠りにつかせてはくれなかった。

ふと気がつき、時計を確認するとすでに時刻は8時を廻っていた。窓のない部屋には昨夜の重苦しいムードがいまだ漂っている。椅子と机のバリケードを撤去し勢いよくドアを開け放つと力強く美しい日の光が薄暗い部屋に一気に差し込む。自作自演の恐ろしい夜は去った。今日こそ必ずバンコクへ向かってみせる!全身に力がみなぎるのを感じると僕はすみやかにパッキングを済まし再びスンガイコーロク駅へと向かった。

列車到着時刻は約1時間後。今回はしっかりと確認がとれた。僕はWi-Fiも入らないプラットホームで何をするでもなくただ時が過ぎるのを待ち続けた。
ライフル銃をぶらさげ警備にあたっているおっかないミリタリー。列車待ちをしている民族衣装に身を包んだマレーシア人。
こんな風景も北上するにつれて見なくなっていくのだろう。あぁ早く懐かしのバンコクに到着してあの騒がしいカオサンロードをブラついてやりたい。

ふと時計に目をやると列車到着予定時刻になっていたがいっこうに電車がやってくる気配はない。もともと時間通りに来るとも思ってはいなかったが、一刻も早くこの街から出たいという気持ちがやたらとイライラさせる。
そんな中何気なく辺りを見回していると遠方に大きくカラフルなバックパックを足下に転がして列車待ちしている一組の旅行者カップルが見えた。
旅人発見!僕はうれしくなってすぐに彼らに声を掛けにいった。イギリス人バックパッカーの彼らは僕と同じくランタウパンジャンから今日タイ入りしたらしいが乗るはずの列車は予定時刻からすでに1時間以上たつ今になってもやってこないという。僕の一本前の列車なのに僕の乗るべき時刻になっても到着していないという現状にさすがにうんざりしてきたが、やっと見つけた“同士”の存在にうれしくて彼らの列車が到着するまでの間、僕はしばしの談笑を楽しんだ。それから30分くらいしてようやく列車が到着し彼らに別れを告げた。そしてさらにそこから1時間程待ってようやく僕の列車もやってきた。大幅な遅延もここから出られる喜びのほうが遥かに勝る。

さぁいよいよスンガイコーロク脱出。人生初の寝台列車による20時間の鉄道の旅は爆破テロへの不安と壮大な冒険心を乗せてゆっくりと進み始める。
向かうはタイの首都バンコクだ。

マレーシア(前編) ~BGMはコーラン、タイ目前のモスリム街コタバルを駆け抜けろ~

11月 20th, 2011

まだ辺りも薄暗い早朝に夢うつつな僕を乗せた高速バスはコタバルに到着した。
追い立てられるようにバスから下ろされたが、暗闇の中まだ半分夢の中の頭では何から始めればいいのかわかならい。
眠い目をこすりながらあてもなく歩いていると遥か前方にマクドナルドの光が見えた。吸い寄せられるように店内に入ると目覚めのコーヒーと強い蛍光灯の刺激で頭を再起動させ、とりあえずiPhoneでコタバルについてざっと勉強することにした。
『厳格なイスラム信仰の地』『情緒豊かで静かな街』『拡声器でコーランの詠唱が聞こえてくる』『酒類は手に入りにくい』
そんなさまざまな情報の中『タイ領事館がありビザが簡単にとれる』という記事に目がとまった。

通常タイのビザなし陸路入国の滞在可能日数は15日間。今回の2ヶ月間6カ国のスケジュールを考えると単純計算で一カ国10日間。ビザを取らなくても大丈夫といえば大丈夫だが旅にイレギュラーはつきもの。どこで何が起こるか分らない。ここで手続きをすれば60日間のツーリストビザ(シングル)がとれる。
マレーシアではペナン島と共にここコタバルにタイ領事館があるとの事だが、ビザ取得希望者の多くがどうやらメジャーなペナン島に流れているらしくコタバルのほうがスムーズに処理が進むらしい。
ここは是非取っておいた方が後々何かと良さそうだ。

検索テーマを今夜の宿探しに移す。
数ある候補の中で僕は『IDEAL TRAVELLERS HOUSE』という宿に決めた。
中国人系のオーナーが経営する安宿で一泊12RM(約300円)~とここまでの最安料金とゆったりとした庭がいい感じだった。
しばらく小さな画面にかじりついていたが、ふと空を見上げるといつの間にか夜は明け、美しい朝日が厳粛な街を力強く照らしいた。
すでにカラカラに乾いたコーヒーカップを後に、僕はIDEAL TRAVELLERS HOUSEを目指し歩き始めた。

中心街からとある細い路地を入り中国人系の大きな一軒家が建ち並ぶ静かな住宅街の突き当たりにIDEAL TRAVELLERS HOUSEはあった。
受付のカウンターには“うちは中華系の宿ですのでアルコール取り扱っています”と目立つ場所に看板が出されている。どうやらこの街ではこういう事が売りになるらしい。
最安の12RMの部屋も空いており、内見する事もなく即決めしたのだがこの部屋が酷かった。
コンテナを改造したような作りの部屋には簡易ベッドと扇風機がのったボロボロの椅子が一脚あるだけのまるで独房のような雰囲気。開閉の壊れた窓からは蚊が入り放題だがこんな部屋でもWi-Fiだけは入っている。このあたりはいかにもマレーシアらしい。
僕は簡単に荷解きを済ませるとスケボーを抱えて街散策に出かける事にした。
時刻もお昼前ということもあって街は人々の活気に満ちている。
やはりイスラム教徒の街だけあってほとんどの女性はカラフルな民族衣装にスカーフを身にまとい、男性もソンコと呼ばれるイスラムの民族帽子をかぶっている人が多く異国情緒溢れる町並みを彩っていた。
ツーリストも少くなく外国人に対して関心も薄いのかガツガツした客引きもなく街全体がおだやかな印象だ。なんとも心地が良い。
街の中心部にある吹き抜け3階建ての巨大なセントラルマーケットでは色とりどりの野菜や香辛料、肉、魚、果物、そして衣類や日用雑貨などが売られている。
イスラム教では不浄の動物とされている豚はほぼ見かけないかわりにここでは鶏肉屋がやたらと目立つ。
皮を剥ぎ取られた丸裸の鶏が何匹も並べられ、その場でガンガン首を落とされている光景はかなりエグい。
所狭しと乱立された店々に色鮮やかな食材と独特な臭い、行き交う民族衣装の人々の知らない言葉と息づかい。何とも言えないカオスがそこにはあった。

昼過ぎにセントラルマーケット近くのローカルな飯屋でナシゴレンと名前も知らないスパイシーなおかずをかきこむと僕はさっそくタイ領事館に向かう事にした。ビザ取得には顔写真が必要だったのでまずは街の小さな写真屋さんに寄る事に。タイ領事館は街の中心部から割と離れた場所にあり、写真屋を出たところで出待ちをしているタクシーやトライショーの運ちゃん達に声をかけられたがマラッカ同様スケボーを見せるとみなニヤついて「がんばれよ」の一言。マレーシアの客引きはあっさりしていて好きだ。

スケボーで20分くらいの距離にタイ領事館はあった。中に入ると数人の待人がいるだけではっきり言ってガラガラだ。
すぐに順番が回ってきて、サバサバとした女性職員からそっけなく数枚の書類を手渡される。
必要項目をサラッと埋めただけでビザ申請はあっけなく終わった。
発行には一日かかるからまた明日来いとの事だったので僕はひとまず宿に戻ることにした。

コタバルの街はさほど大きくもなく観光者向けに特にこれといった見所もない庶民的な街だ。もちろん雰囲気はよいが今回の弾丸スケジュールの中でここで長居するのもどうかといった感じでもあったので、とりあえず市バスの様子を見に行こうと今朝到着したバスターミナルへ行ってみる事にした。
そこから出ている市バスでタイとの国境があるランタウパンジャンという街に行けるとの事だったからだ。

ターミナルには近郊、中遠距離を含めてほとんどのバスが発着する。タクシー乗り場も合わさってここはコタバルの交通の心臓部だ。
ランタウパンジャン行きのチケットカウンターを探していると、ひょんなことからカナダ人女性とフランス人男性バックパッカーと仲良くなった。
聞けばこの二人もさきほど知り合ったらしい。カナダ人女性の方はモントリオールから来た英語教師らしく、以前真冬のモントリオールに行った時の苦労話をすると僕らは一気に打ち解けた。
フランス人の彼の英語は僕よりもたどたどしくて驚いたがそこを英語教師の彼女が先生らしく訂正している光景がなんとも微笑ましい。
こうして僕らはその夜3人で行動することになった。

ブラブラと街を散策しているとバスターミナル沿いのストリートには徐々に屋台が出始めている。宿のオーナーによればコタバルでは毎晩ナイトマーケットが開かれているらしい。
日が傾くにつれ屋台の数は増えていきあっとう間にメインストリートはホコテン状態になっていった。雰囲気的にはバンコクのカオサンロードをギュっと小さくした感じだが買い物をしているのは地元民がメインだ。
様々なハンドメイド品や古いラジカセから響くどこの誰の曲かわからないポップソング、その場で大量のするめを焼いている屋台。一体何を入れたらそんな色になるのかとツッコミたくなるようなケミカルカラーなジュースを売る青年。
ノイジーな客引きもなく活気溢れるマーケットを気軽に見て回れるのは気楽でいい。屋台でマレー料理をたらふく食べつつ、その夜僕らは互いの旅話に花を咲かせた。

翌朝僕はタイ領事館のオープン時間をねらってビザを受け取りに出かけた。街の至る所から聞こえてくるモスリムのコーランをBGMにスケボークルージングする感覚はなんとも斬新だ。
領事館に着くと無事ビザが手渡された。これで実質2ヶ月間タイにいられる。“ゆとり”を手に入れるとなんだか気持が晴れやかになってくる。1度目のタイはバンコク、パンガン島、アユタヤだった。二度目の今回は北部を中心に廻りたい。人生初の陸路入国を果たし、そこからタイ鉄道に乗り一気にバンコクまで行ってしまおう。その後はチェンマイあたりでのんびりするのもいいだろう。

あぁ、なんて気楽な一人旅。起こる全ては自分で切り開くんだ!

帰り道、スケボーに乗りながらタイでのいろいろな妄想を頭に浮かべているとだんだんソワソワしてきた自分に気づく。

“よし、今日タイに行こう”

思い立ったが吉日。宿に戻ると即座にチェクアウトを済ませ僕はあれよあれよとランタウパンジャン行きのバスに乗っていた。
さぁいよいよタイ入り。初めての陸路入国。期待とちょっぴりの不安を胸に満員御礼のポンコツローカルバスは国境の街ランタウパンジャンへと向かう。

マレーシア(前編) ~絶望とバラ色のチケットカウンター~

11月 12th, 2011

帰りのフェリーは行きほど遠くは感じなかった。というより明らかに速い。どうやら船の種類やルートによって乗車時間にかなりの差があるようだった。
メルシンに到着し、島でほぼ行動を共にしていたヨーロピアンガイと遅めのランチを食べ終わると僕らはバスターミナルへと向かった。彼はこれからシンガポールに向かうと言う。北のコタバルへ向かう僕とはここでお別れだ。
シンガポール行きのバスチケットを難なく手に入れた彼とは対照的にコタバル行きのチケットは明日から明けるラマダンの影響なのかどのカウンターも軒並みソールドアウトだ。かなり雲行きが怪しい。今日のチケットが取れなければ明日からはさらに厳しくなるかもしれない。ここ港町メルシンはティオマン島への玄関口である以外、特に見所があるような街でもない。ここに数日間スタックするのはできれば避けたい。そんな中バスターミナルのチケット売り場で一つだけ閉まっているカウンターがあった。
小さな受付窓には『ちょっとランチに出ています』と手書きのプレートがかかっている。ここに賭けるしかない。僕はそれから一時間ほど職員のランチ明けを待ち続け、その後なんとか無事コタバル行きのチケットを確保する事ができた。

出発は日暮れ過ぎ。まだかなりの時間がある。それまでこの大きな荷物を持ち運ぶのはキツいとコインロッカーを一通り探し廻ったが見つからなかった。
それでも念のため先ほどのチケットカウンターの女性職員に聞いてみると、やはりコインロッカーはないと言うものの「よかったら私が見ててあげますよ」と街頭の宝くじ売り場ほどの小さなカウンター越しの事務所中を見せてくれた。

“信用していいのだろうか”

ここは東南アジアだ。メインのバックパックをマレーシアでは指折りのバス会社とは言え、この見ず知らずの女性職員に渡してしまって大丈夫なのだろうか?
盗まれたり、何かスられたりでもしたらかなり面倒なことになる。とは言え、こんなスケボーとミニギター付きの50ℓバックパックなど持ち運びたくもない。オーストラリアでの苦い経験が頭をよぎったが、仕事道具のMacBook Pro類や財布、パスポート関係その他これだけは絶対に盗られてはまずいと思われる物だけ別の小さなバックパックに詰め替え、僕は彼女にメインのバックパックをを託した。
こうして僕とヨーロピアンの彼はそれから街に繰り出し、軽い散策をしたりお茶をしたりとほのぼのとした時間を過ごした。

夕方頃、先に彼の出発時間がやってきた。
偶然島で出会い、都合上初夜のベッドを共にした彼との時間は短い期間だったが楽しかった。

「お互いによい旅を」

互いに固い握手を交わすと彼はシンガポールに向け旅立っていった。

その後僕はオフライン生活だった島の暮らし中でたまっていたオンラインの情報整理に追われ、気がつけばあっという間に辺りは暗くなっていた。いよいよ出発の時だ。
荷物が気がかりだった僕は早めにターミナルに戻ることにした。
“もしかして…”と一抹の不安を抱きつつ例のカウンターに行ってみるとなんとすでに営業が終了しているではないか。
受付の小窓にはシャッターが下り、暗がりの事務所内には人の気配などない。他のバス会社のカウンターもほとんどが営業を終了している。

“…やられた”

一番信じたくないこの展開が再び現実となってしまった。騙されて盗まれてしまったのか、それとも単に預かった荷物など忘れて帰ってしまったのだろうか?
いや元々バスの出発時刻はチケットを売る側として当然把握していたはず。営業終了後の出発便だとしたら最初から荷物など預かるとは提案してこないだろう。やはり騙されたか…。
考えられるネガティブなシチュエーションをいくつあげてみてもそのどれもがここならあり得るように思えてくる。いづれにしても僕は今夜バスに乗る事はできない。ラマダンの明ける明日以降もきっとチケットは手に入らずしばらくこの何もないローカルな街でひたすら時が経つのを待つだけなのだろうか。それ以前に僕の荷物は一体どこへ行ったしまったんだろう…。
そんな絶望感と真っ白なビジョンが僕を圧倒する。

さぁここからどうすればいい?
まずは冷静になろう。まだ盗まれたと決まった訳じゃない。明日またオープンしてから事情を話そう。せめてもの救いは本当に必要な荷物はこの小さなバックパックに移動させておいた事。そういえばたしか安宿も近くにあったはずだ。大丈夫、きっとなんとかなる。

徐々にこれからの非常時用のプランが頭に浮かび始めたその時、なんと昼間の女性職員が戻ってきた。
状況を理解できないながらも心の底から安堵の気持がわき上がってくる。僕は夢中で駆け寄りドアの南京錠を外してくれた彼女の指差す事務所の奥に目線を移すと、そこには僕の荷物が大切そうに保管されていた。

「営業時間が終わったから一旦上がったけどあなたの荷物があるからバスの出発時間前に戻ってきたの」

なんと彼女は僕の出発時間が営業時間後である事を分っていながら荷物の預かりを提案してくれていたのだった。そしてその事は口にも出さず、どこの誰だかわからないこの小汚いバックパッカーの為にわざわざ職場に戻ってきてくれたのだ。

“初対面で声をかけてくるのはほとんどが金目的。たいがい何かをしてくれる時は何かしらの報酬をもらえるのが当たり前”

これまでの実体験で学んだ僕の東南アジアのイメージはここでもろくも崩壊した。
これぞ無償の愛。容姿も美しいその彼女に僕は一発KO、完全にメロメロになった。

僕は彼女にこれまでの旅話や自分自身の事を出発までの限られた時間の中で懸命に話した。僕を知ってほしかった。興味深そうに聞いてくれる彼女。出発時には車内の僕の座席までやってきて見送りを伝えに来てくれた彼女はまさに地上の天使だった。この旅初めての恋のドキドキ感。お相手はマレーシアのとあるローカルなバスチケット売り場に勤める地元民。

10時間にも及ぶ冷房地獄の中、☆と♡マークいっぱいの甘酸っぱいソフトフォーカスな夢の中でニヤつく僕を乗せ、深夜の高速バスは厳格なイスラム信仰の地コタバルをめざす。

Malaysia(前編) ~美しきティオマン島、そして決断のラマダン~

11月 6th, 2011

4時間半のロングドライブは冷蔵庫の中に監禁されたような寒さ以外、特にトラブルもなく無事港町メルシンに到着した。早速バスターミナル敷地内にあった代理店でティオマン島へのフェリーチケットを購入する。一通りの説明をスタッフから受けると、今日の最終便はもう間もなく出航するからとにかく急げと桟橋までの道を口早に説明された。さすがに最終便を逃す事はできないと長距離移動から一息つく暇もなく大荷物を揺さぶりながら乗船所である桟橋まで急いだ。徒歩15分ほどの距離だったが途中何度か道に迷い何人かの地元民に道を訪ねたがほとんど会話にもならずみんなそれぞれ別の方向を指差す。
結局誰も当てにならず死にものぐるいで走り回りなんとか桟橋に出航予定時間ギリギリに辿り着いたのだが、実際に船が港を出たのはその後一時間くらいの事だった。なんとも東南アジアらしい。日本時間で物事を考えると大抵いいことはない。

前方から徐々に動き出す乗客の列。数有る島の港のどこで下船するのか、そして島まで一体どれくらいかかるのかほとんど把握しないまま僕は船に乗った。
船の中は恐ろしく寒い。バス以上にエアコンが効いている。まぁすぐに着くだろうと根拠のない想像をしていたのだが、いけどいけど島の影すら見えてこない。疲労と寒さ、そして徐々に沈んでいく太陽にだんだんと不安な気持ちが芽生えてくる。そもそも本当にこの船はティオマン島行きなのだろうか?ついにはそんな根本的な部分で猜疑心が顔を持ち上げ始める。

以前タイのスラーターニーという街からバンコクへバスで移動する際、事前に予約していたバスに乗るためにバスターミナルまで同グループ会社の無料バイクタクシーで向かったはずだったのだが、実はそのタクシーはまったく別のバス会社グループの詐欺タクシーで違うバスターミナルに連れて行かれ、意味不明な説明でまくしたてられたあげく小銭をふんだくられた苦い経験を思い出した。(※しかしなぜか予約もしていないその別会社のバスでバンコクへ無料で行けてしまった。そんなざっくりとした感じも東南アジアらしい)

日もとっぷり暮れた頃、フェリーはようやくティオマン島のアイルバタン(通称ABC村)と言う集落に到着した。
上陸したものの真っ暗な桟橋の先の島を目の前にその後の予定は全くのノープラン。ネットも通じずどこに何があるのかも分らない。街灯などというものはなく懐中電灯がないと数メートル先も分らない状況だ。そこへ原付でやってきた数人の宿の客引きが前を歩いている乗客を次々と連れて行く。しかしそれもあっという間の出来事で客引きはそれっきりぱたりとやってこなかった。
すでに島中の宿はほとんど満員御礼らしいと言う噂話がどこからか聞こえてくると周りの乗客達はざわつきはじめた。
たまたま僕のすぐそばにいた大柄だが顔つきからするとたぶんまだ20代前半くらいの単身バックパッカーのヨーロピアンガイが僕と同じように立ち尽くしていた。
話してみると彼も宿の予約などしていないというのでとりあえず一緒に島を歩いてみる事にした。歩くと言ってもここABC村には海岸沿いの狭いあぜ道が南北に伸びているだけ。桟橋から右へ行くか左へ行くかただそれだけの小さな集落だった。僕らはぽつぽつと見えてくる宿を順番に聞いて廻ったがやはりどこも満室だった。しかししばらくすると一部屋だけ空いているという宿を見つけた。

受付をしてくれたのはまだ小学生くらいの女の子だった。彼女が言うには確かに一室空いてはいるもののセミダブルベッドが一つだけの小さな部屋だという。
たぶんここ以外他にあてはなさそうだし、体も疲れている。数十分前に初めてあった彼といきなり一つのベッドで夜を過ごすという展開は考えてもみなかったがこれも旅ならではの珍事だと言えばいい思い出になるだろう。そんな事を考えていると「問題ないよ、でも俺たちはゲイじゃないぜ」とヨーロピアンガイはすでに泊まる満々だった。その言葉に受付の女の子はクスクスと笑いながらルームキーを取りに奥の部屋へと入っていった。
こうして僕らはシャレーと呼ばれる小さなバンガロータイプの小部屋で泊まり、その後島を離れるまでの間よく行動を共にするいい友達になっていった。

ティオマン島。南北が約40キロ、東西が10キロほどの比較的大きな島ではあるが、人の住む集落は数えるくらいに点在するのみでそのほとんどが広大な自然に覆われている。
僕の滞在したABC村は端から端まで歩いても30分ほどの小さな集落で、島の中でもシャレータイプの安価なバックパッカーズが多い比較的リーズナブルなスポットだ。有名な日本人のご夫婦が営んでいるスキューバーダイビングのお店もあり、目の前の広がる美しいエメラルドグリーンの海には数えきれないほどの熱帯魚達が出迎えてくれる。それでもまだまだこのエリアは死珊瑚が多くここから船で渡った島に行けばさらにすごいものが見られるとの話だったが激貧バックパッカーにはダイビングライセンスを取る事も無人島ツアーに参加する事も残念ながらできなかった。それでもオーストラリアでは結局会う事のできなかったニモ達にもようやく会う事ができ、あの時達成できなかった“やりたい事リスト”はここで無事コンプリートされたのだった。
美しいのは海だけではなく一歩森に入ればそこは緑豊かなジャングルが広がっている。道なき道を全身を使って進んでいく。まるでどこかの映画のワンシーンにでも入り込んだような気分になってくる。またジャングルではなくても村のあぜ道を歩いているだけで木の上には無数の猿達、そしてノソノソとうろついている1mは余裕でありそうなオオトカゲなどにも日常的に出会う。またマラッカやメルシンでも気になっていたがここマレーシアには猫が沢山いる。街を歩けばそこらじゅう猫だらけだ。猫好きな僕にはたまらない国、それがマレーシアだった。

リーズナブルなABC村であっても島の物価は本土より高い。何もかもが観光地プライスだ。その中でも二日目からはSouth Pacific CharetsというABC村の中でも格安のシャレーに空室ができたとの事で翌日からヨーロピアンの彼とともに移動した。もちろん今回はお互い別々の部屋だ。部屋のクオリティーは蚊帳付きのベッドがぽつんとあるだけの粗末な作りでトイレは汚くエアコンもホットシャワーもない。洗濯もタライでセルフウォッシュというとても快適とは言えない宿だったが、島の雰囲気のよさにそれらを苦に思う事は一度もなかった。ただ一点難を言えばインターネット環境だ。村の中で1~2店舗ネットカフェ的なもあったのだが高額な時間制のうえ電波の入りやスピードも決してよくはなかった。このあたりは離島である以上しょうがないと割り切り、逆にオフラインの大自然生活を楽しむ事にした。

そんな島生活の中で僕はこのABC村をスケボーで移動をしていた。場所によっては砂まみれだったり度々降り出す激しいスコールでいつでも走れるわけではなかったがそれでもクルージングしたくなるような気持のよい景色と雰囲気がそこにはあった。そんな中、僕はこの島で小さなスケボー仲間ができた。集落の南の外れにあるバックッパーズ兼レストランを経営している両親を持つ地元の5人兄弟だった。
一番上のお兄ちゃんはたぶん中学生くらい。白のワイシャツに黒のスラックスという出で立ちで立派にウェイター業をこなしている。その下の兄弟達はおそらく小学生から幼稚園くらいの年だろう。ボロボロで錆びだらけのスケボーを取り合いながらも楽しそうに戯れている。
遠方からスケボーに乗って滑ってくる奇妙な日本人に彼らはすぐに興味を示し、笑顔で寄ってきた。僕らはすぐに打ち解け合った。ヘタクソだがオーリーやポップショービットをやってみせるとあっという間に僕の板は奪い取られ、すぐに彼らの玩具と化した。喧嘩まがいの奪い合いを繰り広げつつ順番に練習している姿がなんとも微笑ましい。旅行客がスケボーを持ってくるシチュエーションはそうそう目にはしないだろう。言葉はほとんど通じなかったがスケボーは立派なコミュニケーションツールになりうるんだとこの時知った。オーストラリア出国時ギリギリまで迷ったが持ってきてよかった。

彼ら以外にも僕はこの島でいろいろな出会いをし素晴らしい時を過ごした。
宿が取れず金もないからとビーチで野宿している陽気なラテン系の男達と仲良くなったり、夜のビーチで地元民と旅行客達が混ざったキャンプファイヤーで酒を酌み交わしたりもした。その宴の中で誰かがその辺で捕まえてきたというカニを焼いて食べてみようと落ちていた石ころでそのカニをメッタ打ちにし、ためらいもなく火に投げ込んだ。残酷だなと思いつつも廻ってきたカニの頭のミソを美味そうに啜(すす)っているとその場の視線が一気に僕に集まり「そんなの食えるのは日本人と中国人だけだぜ!!犬も食うんだろ!?」と微妙に誤解された情報でその夜はおおいに盛り上がった。

ダイビングショップ経営の日本人ご夫婦とも仲良くさせて頂き、食事にも誘ってもらう事もあった。現地在住の数少ない日本人からの情報は貴重なものだった。
まだいつこの島を出るか決めていはいないが北のコタバルへ行きたいという話になるとそれはいつ頃行く予定なのかとしきりに聞かれた。
理由を尋ねると、明後日から“ラマダン”が明けて、しばらくこの島を出る事ができなくなるからだという事だった。
“ラマダン”とはイスラム教徒にとって一年に一度の断食にあたり、日の出前から日没までの間呑む事も食べる事も許されない。敬虔な信者はつばを飲み事さえしないという。しかし日が沈んでいる間に食いだめをする為に一年で一番食糧品の売れ行きがよかったり太ったりする人が多いと言われるなんともユニークな行事に思えたが信者にとってはかなり神聖な時期らしい。このラマダンが明けるというのは日本で言えば正月とお盆とクリスマスが一気にやってくるようなもの。マレーシア中が民族大移動状態になり交通はマヒし店は軒並み休業する。まともに巻き沿いを食らうと島を往来する船には到底乗る事はできず、何日なのか何週間なのかしばらく島を離れる事はできなくなるという。
島の生活は気に入っていたし、まだまだのんびりしていたかったが、財布の事情とこの旅全体でのスケジュールを考えるとやはりラマダンが明ける前、つまり明日には島を出る他なさそうだった。

翌日、短い時間だったが世話になった人たちに挨拶を交わしに村を周り、美しい風景を写真に収め僕はヨーロピアンの彼とともに島を後にした。
またいつか時間とお金に余裕がある時、そしてラマダン時期以外にのんびりと訪ねてみたい、そんな思いを胸に島を後にした。僕らを乗せた“冷凍”フェリーは再び港町メルシンへと向かう。

Malaysia(前編) ~スケボーで駆け抜けろ! 世界遺産の古都マラッカ~

10月 29th, 2011

翌日から二日間かけて僕はマラッカの市内観光に出かけた。観光ポイントはTravellers Lodgeからさほど遠くもなく見所も割と密集していた事もあり、折角なのでオーストラリアから都合上持ってこざるを得なかったスケボーで廻る事にした。オーストラリア出国前に東南アジアの道路事情はほとんど期待していなかったが、ここマラッカは観光地だけあって道路は程よく整備されていてスケボーで走るのに問題はなかった。

マラッカは15世紀あたりにポルトガルやオランダに侵略されていた事から様々な場所で西洋的な雰囲気を感じられる。
オランダ広場に立ち並ぶ赤レンガの建物の数々、中央にある噴水と色鮮やかな植え込みの周りで記念写真を撮ろうと順番待ちしている観光客、おびただしい花飾りにデコられたド派手なトライショーと呼ばれるサイドカー付き自転車の客待ち行列がこの世界遺産であるマラッカを観光地として演出している。
セントポール教会跡では社会の教科書で馴染み深かったフランシスコザビエル像が建っていたり、スーパーマリオに出てきそうなポルトガル軍製サンチャゴ砦の大砲は当時の激しい歴史背景を想像させる。マラッカ川を挟んで西側に広がるチャイナタウンでは雰囲気がガラリと変わり、プラナカン(大陸からやってきた中国人とマレー人女性の間に生まれた混血)文化が色濃く根付いている。
iPhoneで調べたチャイナタウンのとある有名なチキンライス屋の名物“海南チキンライス”は行列に並んで食べたが期待していたほど印象には残らなかった。
一通り名所を廻りオランダ広場で休憩しているとトライショーの客引きにしきりに声をかけられたが「ありがとう、でも僕にはこれがあるのさ」とスケボーを片手でくるっと回して見せると「まちがいないな」と苦笑いしていた。

トータルで僕はマラッカに3日ほど滞在した。観光以外の時間は部屋でヴィパッサナー瞑想をしたり屋上のウッドデッキでビル群に落ちていく夕日を見ながらへたくそなミニギターをポロポロとかき鳴らしたりとマラッカのゆっくりとした時間の流れに身を任せた。またコウヘイくんをはじめとするTravellers Lodgeの旅人達のおかげでマラッカの生活圏の様子や食事、生活習慣なんかの日常的な事情も徐々に把握していった。

マレーシアは人口の約6割がマレー系で3割が華人系、そしてインド系という国だ。したがって食文化に関しては三か国の料理を味わえる。
もっともインド人から見ればもはやカレーではない日本独自のそれと同じようにマレーシア国内でローカライズされた料理も多い。
インド系料理であるロティ・チャナイはたぶんその中の一つだと思う。小麦粉をクレープ上に焼いたものにカレー風味のソースをつけた物だがナンやチャパティとは微妙に違う。ロティにはカレーをつけるだけではなくロティ自体にバナナが挟んであったり練乳がかけてあったりと、どちらかというとお菓子や軽食に近い感覚だ。屋台で売られている事もあり値段も日本円で40円前後という今回の貧乏旅には非常に有り難いB級グルメだった。
そしてやはりマレーシアと言えばナシゴレン、そしてオーストラリアの某有名スーパーマーケットでもインスタント麺として売られていたお馴染みのミゴレン。やはり本場のものは本場で食べると美味さは一入だ。特にミゴレンに関しては強烈な化学調味料で一食食べると文房具の「下敷き」を数枚食べたのと同然という都市伝説を持ち、その危険性から日本での販売不可”らしい”オーストラリアのインスタントモノ(※癖になるような強烈なケミカルな旨味と値段の安さ故に常食していた)とは雲泥の差だった。
また生活習慣に関してトイレ作法には苦戦した。
未来的すぎた空港ではお目にかからなかったが一般生活レベルでのトイレでは日本のようなトイレットペーパーはない。その代わりに壁からダラリ垂れたとホースがついており、床は雨上がりのように濡れている。最初はこの初めて見る状況を理解する事ができなかったが、どうやらこれはトイレ掃除用のホースではないらしい。これ使って目標物を狙って水をかけ”不浄の手”である左手を使い汚れと水気を落とすらしい。僕は汚れを直接手で洗う事に抵抗があったのでホースの先をつぶして疑似ウォシュレットを再現し水圧で汚れを落として水気は自然乾燥を待った。が徐々に意識が慣れてくると”パンツはタオル的な役割を果たせる”と思えるようになり水洗した後は乾燥を待たずダイレクトにパンツを履くようになっていった。

時が経つのは早いもので、いよいよマラッカを離れる時がやってきた。今後の進路についてダイニングルームであれこれ調べているとコウヘイ君が入ってきた。
さまざまなマレーシアの見所やその地域の細かな情報を相変わらずの名調子で教えてくれる。その豊富な知識故にすでにマレーシアを巡り巡ってきたんだろうと高をくくっていたのだが、実はまだここマラッカ以外はクアラルンプールのみという僕とほぼ同じ境遇だったという事に驚いた。ではどこでそんな情報を得ていたのかは彼の右手に持っていた「地球の歩き方」を開いたらすぐに分った。
ほとんどのページに赤ペンと鉛筆で解読難解なメモがびっしりと書きなぐられている。まるで受験生の教科書のようだった。
今後行くか行かないかはさておき下調べだけはすでにパーフェクトにこなしてある。ひとそれぞれ旅のスタイルがあって面白い。
ここではコウヘイ君の豊富な知識をお借りして僕はここ西海岸から一気に東海岸にあるティオマン島を目指す事にした。
マレーシア北に位置するタイに入国する際、西側ルートか東側ルートか選択せねばならないのだが、このままマレー鉄道で西海岸を北上し有名な観光名所であるペナン島を経由して目指す事もできた。その方が方角的にも時間的にも都合がいい。
しかし僕にとってペナン島はイマイチな印象だった。たしかに世界遺産のジョージタウンや美しいビーチは魅力的だったがそれは”豪華で優雅な”というワードが頭に付くようなリッチなリゾート地で、貧乏バックパッカーが行って楽しめる場所ではないと思ったからだ。それにあまりにも有名で観光地化し過ぎているのも退屈に思えたひとつの理由だ。

そう考えると西海岸のここマラッカから真反対である東海岸にあるティオマン島は距離はあるものの魅力的に思えた。島のほとんどが手つかずの大自然で透き通った海と美しいホワイトビーチ。そして世界有数のダイビングポイント。オーストラリアで結局会う事ができなかった”ニモ”に今度こそ会えるかもしれない。またマレーシア北東部にあるコタバルという街もマレーシア国内でも最もイスラム色が強く、その独特な街の雰囲気がとても印象的だから是非一度行ってみた方がいいという何人かの旅人のリコメンドもあって僕はこの”東側ルート”でタイに入る事を決めた。

出発の日、たった数日間ではあったが幼なじみの親友のように接してくれたTravellers Lodgeのみんなに別れの握手とハグを交わし僕は再びマラッカ北部のセントラルバスステーション行きのローカルバスに乗り込んだ。
ヘッドスカーフを身につけた女性が目立つイスラム色の強いバスの中、途中信号待ちで巨大なジャスコが現れた時、一瞬ここがどこだか分らなくなるようなカオスに包まれたが無事バスターミナルに着き、僕はティオマン島へのアクセスポイントとなるメルシンという街までの高速バスチケットをゲットした。距離にして約240km、所要時間4時間半のロングドライブだというのに料金は日本円にしてたったの500円程度。冷房の効き過ぎで上着がないと長時間の極寒地獄にさらされてしまうことを除けば、安い・速い・豪華と、マレーシアの移動は高速バスがとても便利だ。
こうして僕の旅は西の古都マラッカから東のビッグネイチャー、ティオマン島へと続く。

Malaysia(前編) ~スコールの祝福、マラッカ到着~

10月 23rd, 2011

およそ3時間も経たないほどで高速バスはマラッカ北郊外にあるバスターミナルに到着した。
下車するとさっそくタクシー運転手達の怒濤のような客引き洗礼を受けるがとりあえず笑顔でスルーして荷物を取り出そうと床下トランクを覗き込んだ。しかしここである異変に気づいた。

バックパックがビショビショに濡れている。

途中スコールのような激しい雨が降ったのだが、事前の想像を遥かに超えていた快適なVIPバスクルージングに酔いしれていたので気にも留めていなかった。が、実は床下は雨漏りしていたらしい。だが不思議と不快な気持ちにならなかった。むしろ未来都市のような空港にVIPすぎるバスとマレーシア到着時から少々カオス気味だった僕の頭に、こういったなんとも東南アジアらしい感じが逆に安心感を与えてくれたのだった。
とりあえずここから市内へ行くバス乗り場を探す。割と立派なバスターミナルだったが、奥に進むにつれごちゃごちゃした屋台が目につくようになる。
何年か前にタイに行った時のような小汚い庶民的な感じ。ただ違うところはタイほど商売っけがないところ。積極的な客引きもなくみんなのんびり店を構えている。
インフォメーションで市内行きのバス乗り場と出発時間を教えてもらう。2時間程のゆとりができ、とりあえず腹も減ったという事でとある屋台に入ってみることにした。やる気のなさそうな亭主がのそのそやってきて、作り置きしてあるオカズとご飯からどれを選ぶか聞いてきた。
一体どれくらい前に作った物か分らないが冷えていてもそれなりに美味い。食事中、厨房の壁にあるコンセントを発見し電池の切れかけていたiPhoneを充電してもいいかと亭主に聞くと好きにしろと厨房の中に入っていった。

飯を食い終わると僕は今夜の宿を探す為にWi-Fiポイントを探しにフラフラとターミナルを歩き回った。と言ってもだいたいどの場所でも何かしらのWi-Fiが入っている。極端にスピードが遅かったりパスワードロックされていたりするものもあったが、程よく電波が入り且つ電源も確保できるベスポジが見つかるまでそんなに時間はかからなかった。
待ち合いロビーのソファーで柱にあるコンセントから充電をしつつ市内の情報を探す。
いろいろ候補がでてきたが僕は”Travellers Lodge”というバックパッカーに決めた。日本人の嫁さんを持つ気さくなオーナーに写真でみる宿の雰囲気も良さげだ。料金も個室で一泊20RM(リンギット)前後(日本円で約500円弱)で
悪くない。
今回の旅に2ヶ月間/6カ国/約8万円という厳しい条件があるとは言え、安さ故にドミトリーを選ぶという選択肢はなかった。
バイロンベイでの窃盗事件で大切な商売道具のMacを失った痛い教訓が自然とそう意識させる。これでまた盗まれてしまったら今後の生活の全ての術を失う事になる。ただでさえここは東南アジア、しっかりガードを固めていかねばならない。
宿探しに関してはなるべく贅沢はせず節約しながらもある程度のクオリティーと安全性を重視する、そんな感じだった。
予定時刻より大幅に遅れてバスがやってきた。この辺りはほぼ”予定通り”、問題はない。

さすがに高速バスと違って市内を走るローカルバスは狭く小汚い。
旅行者というよりは地元民でぎゅうぎゅう詰めの車内で50ℓのバックパックにギターとスケボーをくくりつけた大荷物をもったバックパッカーは目立つ。特異な視線を気にしつつも運転手に小さなiPhoneのMAP画面を見せ降りたい場所を伝えると僕はなんとかこの混沌した狭い車内で席を一つ確保した。

走行中再びスコールのような猛烈な雨が降り出し、古く痛んだアスファルトにみるみる水が溜まっていく。バス停で待っている人もバスを降りていく人もこんな事は日常茶飯事だと言わんばかりの様子でずぶ濡れになっても特に慌てる様子もない。
そんな光景をぼーっと見ていると

「おい日本人の旅行者、着いたぞ!」

という運転手からのデカいアナウンスメントで僕は我に返った。一斉にバス中の視線が僕に集まる。狭い車内でなんとかバックパックをしょい直しヨタヨタとバスを降りると、激しい雨の中マクドナルドの入った大きめの合同店舗の軒先へと転がり込んだ。
しばらく僕はすぐには止みそうもない空を見上げていたが、とりあえず宿までのルートを確認しようとiPhoneに目をやるとすでにフリーWi-Fi圏内に入っていた。頼むから日本も見習ってくれ。
雨も小雨に変わったところで歩き出すと天気は急転、ジリジリと力強い太陽が照りつけ始めた。

バス停から徒歩数分の場所にTravellers Lodgeはあった。
入り口の狭く急な階段を上っていくと真っ黒に日焼けした小柄なオーナーが笑顔で迎えてくれた。日本人の奥さんがいるだけあってカタコトの日本語で愛想良く話しかけてくれる。
リビングにはゆったりとしたくつろぎスペースがあり数人の旅人が思い思いの時間を過ごしている。本棚には日本のマンガ本なども置いてある。僕の部屋はリビング奥にあるはしごに近いような急な階段で屋上に上る途中にあった。
ベッドと小さな机とクローゼットがあるだけの小さな部屋で日当りもよくそれなりに清潔、居心地は良さそうだ。急な階段の先には屋上がある。高度成長の建設ラッシュのせいか景色はあまりよくはなかったが手作り感のあるウッドデッキは雰囲気がとてもよかった。Wi-Fiこそ自室では使えなかったがリビング下のダイニングルームでネットができるとのことだった。
ざっくりと建物探検、そして荷解きを済ませリビングに戻ってくると数人の日本人旅行者がいる事に気づいた。彼らも僕に気づくと気さくに声をかけてくれた。その中の一人、大柄で声も大きく見た目も印象的なコウヘイくんはとにかくキャラクターが強かった。機関銃のように矢継ぎ早に会話と独り言を交互に連射し、あっという間に彼の”ワールド”に引きづり込む独特な“間”をもっていた。隣にいた小柄な日本人はやれやれと言った表情を僕にこっそり見せている。
後に彼らから聞いて知ったのだがこの宿は地球の歩き方にも載っていてるらしく日本人にも有名らしい。
なるほどiPhoneで日本語検索して出てくる場所は当たり前だが日本人向けの記事というわけだ。地球の歩き方を持っていてもいなくても大して変わりはないのかとその時知った。

その夜僕らは近くのインド料理屋で食事をし、お互いの旅話やマラッカについての情報を交換し合ったりした。こういう場所であう人々はやはり「何か」を持っている人が多い。そして“常識”を構成しているネジが数本足りないクレイジー感が面白い。宴は夜遅くまで続き、明日からの回るべき名所も把握したところで僕はマレーシア到着後、初めての夜を秘密基地のような小さな屋根裏部屋の中で眠りに落ちていった。

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Malaysia(前編) 〜さよなら先入観、始まりは近未来空間〜

10月 16th, 2011

2010年9月6日早朝。僕はついにマレーシアはクアラルンプール国際空港に降り立った。
“マレーシア” 
学生の頃教科書で“スズ、石炭、原油、天然ガスなんかの資源が豊富”と書かれていたような、なかったような…そんな知識レベルでこれまでほとんど意識した事のない国だった。正直、首都がクアラルンプールだという事も昨日発ったオーストラリア・ブリスベンの飛行機待ちをしていた図書館で知った、そんな程度だった。
僕が勝手に抱いていた漠然としたマレーシアのイメージは「発展途上で貧しい南の国」、しかしそんな先入観も実際に空港に降り立った瞬間に吹き飛んだ。
近未来を思わせる美しく整備された景観。そこは様々な国の人々が忙しなく行き交う巨大な国際空港だったのだ。
手荷物受取所でベルトコンベアに乗って回ってきたスケボーとギターがくくりつけられたバックパックを背負い込むと、僕はとりあえずこの未来都市のような空間をしばらくフラついてみる事にした。

カプセルのようなシルエットのエレベーターをはじめ、曲線と直線が織りなす透明感ある建築設計と美しいライティングがスタイリッシュな空間を演出している。おまけにWi-Fiはフリーでほぼどこにいても入るすばらしい環境。日本も少しは見習ってほしとつくづく感じたものだった。
プチ空港観光を終えた僕は手持ちのオーストラリアドルをマレーシアリンギットに両替することにした。バイロンベイのキャンピング生活でテント荒らしに遭って以降クレジットカードは一枚もない。現ナマの1000AUS$、これが僕の全財産だ。ここから6カ国を2ヶ月間かけて回り無事またこの空港に戻ってこられるよう慎重に使っていかなくてはならない。僕は単純に1000ドルを6カ国で割った約160ドルを両替する事にした。
物価はもちろんオーストラリアとは比べ物にならないほど安いという認識はあったが生活水準や日常的な物価については詳しく調べていなかった。また「地球の歩き方」的なガイド本などもちろん持っていなかったので頼りになるのはゴールドコーストで松葉杖をつきつつ発売初日徹夜で並んで買ったiPhone4だけだった。とはいえ、空港からいきなりのノープランという事もどうかと思い、とりあえず最初の目的地だけは事前にiPhoneで調べて決めておいた。

マレーシアの古都“マラッカ”。クアラルンプールからバスで約3時間ほど南西に位置する世界遺産にも登録された歴史ある港町だそうだ。
しかしそれ以上の情報はあえて調べなかった。行ってみてその場の雰囲気をどう感じるか自分の五感を使って感じたい。そしてその後のプランはそれ次第で大きく変わって行くと思ったからだ。
マラッカ行きのバス停を調べる為に空港内の至る所に表示されているインフォメーションサインを見ているとある事に気づいた。

“なにか英語がおかしい”

例えば電車のアイコンの隣にKLIA Ekspresと書いてあるボードがある。普通なら”Ekspres”ではなく”Express”だろう。
ほかにもBUS(バス)がBASだったり、POLICE(ポリス)がPOLISだったりと子供が英語のスペルを間違って書いているような表記がマレーシアの首都にある国際空港にあふれている。後で解った事だがこれはマレー語の表記だった。しかし10ヶ月間もオーストラリアにいた事もあってか見るたびに何かしら突っ込みたくなるなんとも気持ちの悪い妙な気分になったものだった。
気になったのはマレー語の表記だけではない。実際のコミュニケーションにも戸惑った。
結局バス停を見つけられずインフォメーションセンターの女性職員に聞いてみる事にした。イスラム教が国教のマレーシアでは多くの女性がヘッドスカーフをかぶっている。国際空港で働く職員であっても例外ではなく、あたかも制服であるかのように身につけており何とも言えない神秘的な雰囲気を醸し出している。

「マラッカに行きたいのですがまずここからどこへ行けばいいですか?」
「まずあちらの…○△×※、そして◎×▲*…」

“…あれ?これって英語話してるのか?”
うまく聞き取れない。確かに英語で話かけて英語で返してくれているのだが、ほとんど何を言っているかわからない。
その理由は彼女の“なまり”にあった。アジア人の話す独特な英語。日本にいた頃なら馴染みがあったのかもしれないが一年近くいたオーストラリアの生活の中で、よく解らないながらもいつのまにかネイティブの発音で英語を聞くという癖が自然と身に付いていた僕には逆に難しく感じられた。
聞き取りづらい英語を何度も聞き直さねばならない状況に気持ちはヤキモキしていた。国際空港の中、それもインフォメーションセンターというポジションで働く彼女の発音に(自分の語学力は棚に上げておいて)ケチをつけたい気持ちがこみ上げてくる。しかし考えてみれば世界全体で見た時、英語をネイティブに話す人々の方が圧倒的にマイノリティだ。これが本来の“世界共通語の英語”の姿なのかもしれない。
その後何度も道に迷いながらもなんとかマラッカ行きのバスステーションまで行ってくれるバス乗り場まで辿り着く事ができた。
余談だがそのバス乗り場に行く途中一度空港から外に出てみたのだが、時間はまだ午前7時前だというのに強烈な蒸し暑さを感じた。何もしていなくても汗の吹き出してくる蒸し風呂のようなこの感覚はまちがいなく赤道間近の熱帯雨林気候だった。ケアンズで感じたそれとは比にならない。これがマレーシアだ!東南アジアの旅が今はじまったんだ!と小さく武者震いした事をよく覚えている。

こうして僕は無事マラッカ行きのバスステーションにたどり着き、想像以上に豪華な高速バスに乗り込みマラッカへ向かうことになった。
予備知識のほぼない異国の地で今夜泊まる宿すら決めていない、そもそも今向かっている街がどんな場所なのかも行ってみてからのお楽しみというバックパッカーならではの醍醐味に酔いしれながら僕を乗せたVIPバスは“世界遺産の街マラッカ”へと向かう。

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Cairns ~最終章 ありがとうオーストラリア、そして東南アジアへの旅立ち~

3月 23rd, 2011

10日間の瞑想修行を終え、ケアンズへの出発前に僕は再度YUKIに会う事になっていた。

実は彼はこの10日間ある決断に揺れ、僕の戻りを待っていたのだ。

それは自分自身へ課したこれから進むべき道についての決断。

ここへやってきた彼の目的はファームの仕事探し。僕がやってきた時、それまで従事していた現場を終え、次の求人を待っていた所だった。

この年オーストラリアは例年にない農作物の不作で、需要を越えるワーホリ農業希望者が溢れ、就職倍率は跳ね上がり、希望者がファーム提携のゲストハウスで返事待ちの日々を送る事は珍しくなかった。

まさに彼はその最前線にいたわけだが、徐々に周りの友人達の内定が決まり始めていた中で、彼の心は揺れていた。

ただ毎日を気の知れた友人に囲まれ、なんとなく浪費していくメリハリの無い日々。確かに今後のために金を稼ぐ必要はある。しかしもし明日内定が決まったとしても、それはこれまで通りの保障された退屈な生活に戻るに過ぎない。本当にそれでいいんだろうか?本当にこれが自分の望んだ姿なのか?

そんな葛藤が心の表面に浮かび始めたちょうどその頃、彼の白羽の矢はサンシャインコースト経由でケアンズを目指す僕に立ったのだった。

以前から彼はトランプと共に気ままな旅をしていた僕のライフスタイルに興味は示していた。

気のあう仲間達の笑顔に囲まれ、何不自由なく幸せに暮らしていた生活だったからこそ、彼の中で「何か」が足りないと感じていたのかもしれない。

10日ぶりに再会した彼の顔からいつもの笑顔と共に決意にも似た強い表情が伝わってくる。そうしてこう切り出した。

「もう二度と巡ってこないかもしかないこのチャンスに乗りたいと思いました。よろしくお願いします」

それはこれまでの「安定」を捨て「放浪」というなんの保証もない経験をとった彼の大きな決断だった。

僕たちの関係性はこの瞬間からパートナーへと変わった。

この長い旅路の中でともに力を合わせる大切な仲間となったのだ。

こうしてトランプ、僕、そして新たに加わったYUKIのパーティーは1号線をひたすら北上し、はるか1600km先のケアンズを目指した。

これまでカナダ人アシュリとの男女二人、RAMOとミナの男女三人旅は経験した事はあったが男二人組はこれが初めてだった。

やはり男同士は華はないが気楽でいい。窓ガラス越しに流れるオーストラリアの殺伐とした荒野と男同士の熱い語り合いは、ベタ過ぎる程見事にハマった。地平線に落ちていく真っ赤に燃える太陽も、狭い車内で苦労して作る簡素な飯も一人より二人の方が感動は倍以上だ。誰かと旅をする事で素晴らしいところは、そこで出会う様々な体験を共にシェアできる事に尽きる。

身も震えるすばらしい経験はその美しさの前に共に言葉を失い、鬼気迫る緊迫した状況は互いの知恵を持ち合い解決へのプロセスを模索する。

YUKIもこの旅路の中、現在位置やルートの検索などのドライブサポート、テントの設営や、車内での食事の支度や後片付けなどの手伝いをスポンジの如く吸収していき、まさにパートナーとして欠かせない存在になっていった。一つの目的の前に苦楽を共にし、一歩ずつ前進していく過程で僕らの絆も深まっていった。

ところで、サンシャインコーストからケアンズへの道のりの中で僕はどうしても一カ所寄りたい場所があった。

それはグレートバリアリーフ。オーストラリア北東岸に広がる世界最大の珊瑚礁地帯だ。これは渡豪前に作った「やりたい事リスト」の中で「キャンプ生活をする」「車を買って車上生活をする」「書道でバスキングをする」などと共に入っていた「グレートバリアリーフでニモに会う」を達成するためだ。

そう、ここグレートバリアリーフは映画「ファインディング・ニモ」の舞台でもあり、マーリン&ニモ親子の古里なのだ。ゴールドコーストからメルボルンへと南下して行った旅の順路でこの項目はほとんど諦めていたが、こうして再び北上する事になり、今回めでたく再浮上した項目だ。

僕たちはホゥイットサンデイという街でツアーを申し込み、エアリービーチからスピードボートに乗ってウイットサンデー諸島へ渡りシュノーケリングを楽しんだ。

美しく広がる絵葉書のようなエメラルドグリーンの海に僕達は大興奮だったが、冬の海は冷たく、クラゲの繁殖時期も重なり海パン一丁だったYUKIはまんまとその餌食になっていた。僕はサーフィン用のスーツで難を逃れたが浮力が強すぎて全く潜れないという、なんとも締まらないミスで遠目から色鮮やかな熱帯業達を眺めるだけとなってしまった。結局ニモには会えなかったが目の前を横切る巨大なナポレオンフィッシュや、図鑑でしか見た事の無いような魚達に取り囲まれたりと、まるで水族館の水槽の中に入っているかのような体験に久しぶりに童心に帰る事ができた。行き帰りのスピードボートもオージーらしいダイナミックでアクロバットな運転で熱狂させてくれたり、遥か前方に見えるクジラの潮吹きショーは地球の壮大さを感じさせてくれた。こうして残されていた“やりたい事リスト”最後の項目はニモこそ会えなかったが大満足のうちに達成されたのだった。

しばしのリゾート気分を味わった後、僕たちは再びケアンズへの旅路へ戻った。途中、日本のクライアントから入った急ぎの仕事のため、急遽電源やWi-Fi完備の図書館や飲食店がありそうな街を探しまわるという一幕はあったが、その後は極めて順調だった。

徐々に近づいてくるケアンズ。それに伴い温度、湿度そして周りの風景すらも変わっていく。

僕たちはいつのまにか熱帯雨林気候に突入していた。

数日前の凍える寒さはどこえやら、蒸し返るような車内の空気に、慌てて窓を開けると今度はなまぬるい風が一斉に入ってくる。これはたまらん、と二人ともどんどん上着を脱ぎ捨てる。オーストラリアのデカさとケアンズ到着の予感に僕らのテンションは上がった。こうしてトータル4日間を走り続け、僕たちはついにケアンズへ到着したのだった。

以前ケアンズで生活した事があったYUKIの案内でまずは市内観光がてら街の全体像を把握していく。印象的だったのは日本人の多さ。それはサーファーズパラダイス以上だった。大都市をイメージしていた街の雰囲気も、高層ビル群などもなく想像していたよりずっとこじんまりとした、どちらかというと「のどかな観光地」といった感じだった。しかしYUKIいわくここはオーストラリアで最も治安の悪いエリアで深夜の一人歩きは絶対に控えた方がいいという。いづれにせよ僕には少し退屈な印象のケアンズだったが、この街でやるべき事ははっきりしていた。車の売却、エアチケットの手配、そして不要な荷物を日本に送り、次なる舞台“東南アジア”へと旅立つ事のみ。そのためにはまず家探しだ。治安の悪いケアンズではできるだけ車内泊は避けたい。今夜からでも住める場所をと、街中の掲示板に張られたシェアメイト募集の張り紙に片っ端からアポを取っていく。たった数日間と言う短期のリクエストに応えてくれるオーナーは皆無に近かったが粘り強いアポ取りが功を奏し、ようやく条件を満たす物件が1軒ヒットした。しかも一日たったの10ドルという嬉しいオマケ付きで。

その日から旅立ちに向けてドタバタな日々が始まった。

まずはこれまでずっと僕を支え続けてくれた最愛のパートナー、トランプとの別れ。売却金額がそのまま次の旅の軍資金に変わる。言い換えれば、東南アジアでも再び彼と旅をし、彼の世話になるという事だ。出国までの限られた時間の中でどうやって買い手を捜すか。掲示板で広告を出すか、中古車屋に売るか…。

そんな時、意外な所からオファーがかかった。それはなんとYUKIだった。彼は僕の出国後、とりあえず南下して友人達と合流すると言っていたが、その後の予定は未定だった。しかし今回の経験が彼の中で何かしらの変化を起こしたらしい。友人をピックアップした後トランプとオーストラリア大陸を廻りたいのだという。それは後に合流予定の友人もすでに了承済みで共同で買ってくれると言うなんともうれしいサプライズだった。彼らなら僕も安心できるし、僕の想いも引き継いでもらえる。そしてきっとトランプも喜んでくれるはずだ。

さて、次はチケット。そのためにはまず東南アジアをどう廻るかを考える必要があった。入国に関して国によって陸路と空路で滞在できる日数が違ったり、事前に出国チケットも買わないと入国拒否される可能性があったりと想像していた以上に入国先選びは難航したが、最終的にマレーシアのクアラルンプールに決定した。そこから陸路移動で時計回りにタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナム、カンボジアと周り、再びタイ経由でマレーシアに戻り、帰国という大雑把な予定を立てた。

さっそく旅行会社でチケットの手配をしてもらう。と、ここであり得ない事態が発覚した。なんとケアンズ空港からは東南アジア行きの飛行機は一本も飛んでいなかったのだ。遥々ここケアンズまでやってきた意味そのものを根底から覆されるような事態にさすがに動揺の色を隠しきれない。事前によく調べもせず先入観のみで、位置的にオーストラリアの北東で東南アジアに最も近いからとか、「ケアンズ」というメジャーな都市にある空港なら当然東南アジアへ飛び立てるものだという思い込みが完全に裏目に出てしまった。さらにマレーシア行きの便はなんとヴィッパサナー瞑想コースを受けたサンシャインコーストの目と鼻の先のブリスベン空港から出ている事が分り、再びここまでの旅の苦労や意味合いを見失いかけた。が、そこはヴィパッサナー瞑想修行者の端くれ、「平静な心」で“なんとか”乗り切りブリスベン行きの国内線チケットも併せて購入し店を後にしたのだった。

そんな想定外の出費に加え、日本へ送る荷物の送料もまた想定外だった。10ヶ月間の生活の中でいつの間にか増えていた荷物の数々。まともに送っていたんじゃとんでもない事になりそうだった。気の遠くなりそうな取捨選択の結果、ミニギターとスケボーはやむを得ず東南アジア入りが決定した。なるべく荷物は増やしたくなかったが、「旅に楽器はつきもの」「スケボーで東南アジアを廻ろうなんて粋」と半ば無理矢理自分を説得してバックパックに縛り付けた。

ここで一番の悩みはサーフボードだった。これ一枚で残りの荷物と同じ分の金額が加算される。ブリスベン行きの追加チケットに荷物の送料。いろいろ考慮するとこの時点で2ヶ月6カ国の旅に想定しいた旅の資金はギリギリだった。

あれだけがんばったサーフィン漬けの日々で得た経験はこのサーフボードと共に持ち帰り、友人達と分かち合うためのものだったはず。持って返るべきか売却して旅の資金に充てるべきか…。とりあえずそれは最後に残っていたトランプの名義変更を済ませてから結論を出そうということにした。

しかしここでも大きな落とし穴が口を開けて待っていた。

オーストラリアでは車の名義変更にロードワーシーという書類が必要だった。それはその車が安全だと証明する書類。これは車の修理工場等でセーフティーチェックを受けて一定の基準をクリアすると初めて発行される、個人売買では欠かせない書類だった。出国数日前というギリギリで分った事実。それが無ければ譲渡は成立しない。すぐさま修理工場をあたり一番早く診てもらえる所に予約を入れ、トランプを預ける事2日、修理工場のメカニックから絶望的な見解を聞かせされる事になった。

「申し訳ないがロードワーシーは発行できない。というより発行する価値がない。これを見ればわかる。」と一枚の見積書を僕に手渡してきた。

そこには見積書からはみ出さんばかりの“要修理項目”がビッシリと並んでいた。そしてなんとその合計金額は僕がYUKI達にトランプを譲った金額を超えていた。

「ロードワーシーをとりたいんならそれだけ全部治さなきゃならない。でもその価値があのボロ車にあるか?普通に考えれば廃車だろうな。」

僕は愕然とした。すでに車のお金はYUKIからもらっていたし、マレーシア行きのチケットも購入済みだ。

頭が真っ白になる。しかしどうしても納得がいかなかった。ここへ来る前、クーランガッタで長旅に備えて修理に出してきばかりではないか。腕利きのメカニックに一度隅々までみてもらっているのに廃車扱いはあんまりだ。

たまたまその日、僕は昔実家のご近所さんだった“アヤちゃん”と会う約束をしていた。彼女はオージーの旦那さんと2人の可愛い子供達とともにここケアンズで住んでいたのだが、もうしばらく顔を見ていなかったので僕はこの日を楽しみにしていた。しかしそんな日にこんな事態がバッティングし、せっかくの再会はドタバタなものになってしまった。しかしラッキーな事に彼女の旦那さんが車関係に詳しい人だったので、知り合いの修理工場を紹介してもらえる事になった。そこで改めてトランプを診てらったが、結局結果は同じだった。しかしロードワーシーを発行する事は難しいが、数カ所治せば普通に乗れるようになるとそのメカニックは言った。ここで僕は思い切った決断をした。

名義変更は諦め、僕名義のまま引き継ぐ。そしてYUKI達がこの車で最低限この国を旅できるように修理してもらう。その修理費用は僕が負担をし、さらに既に受け取っていたトランプ購入代金も一部キャッシュバックする。

今後起こりうるリスクは承知だったがもうこれしか方法は無かった。悩んでいたサーフボードも当然あきらめ、YUKI達に譲りそれを売ったお金を車のキャッシュバック代の一部に充ててもらう事にした。

こうして僕の手元には最終的に約1000$ちょっと、当時のレートで8万円強という金額が残った。

以前バイロンベイであった盗難事件でクレジットカード類は全て失っていたために、この1000$ちょっとのキャッシュが泣いても笑ってもこれからの旅での僕の全財産だった。

たったこれだけで6カ国を廻れるのだろうか…。

心の奥底に不安心が顔を覗かせたが、どんなトラブルでもこれまでなんとかやってこれた。必ず抜け道はある。

今もこうして目の前で起きている絶望的なトラブルにも解決の糸口が見えたじゃないか。

やるべき事はすべてやったんだ。後はもうなるようになる。旅立ちを待とう。

慌ただしい日々に追われ、まだまともにケアンズを楽しんだことがなかった事に気付き、僕はそれから出発前夜まで吹っ切れたように友人達とオーストラリア最後の時を満喫した。

そしてついにケアンズ出発当日。早朝6時フライトという早朝出発にも関わらず前日の夜更かしがたたり5時に目覚めると言うシャレにならないミスを犯してしまった。

死に物狂いでトランプを飛ばし間一髪、ギリギリのタイミングでチェックインに滑り込んだ。これがもし国際線だったら…と思うとゾッとする。

そしてすぐさまフライト時間はやってきた。いよいよYUKIとの別れの時。

「トランプを頼んだ。お互いいい旅を続けよう。」僕らはがっちりと両手で握手をした後、しっかりとハグをした。

苦楽を共にした長い旅路ですっかりたくましくなった彼を見ると何かしらこみあげて来るものがある。

そんな二人で走った4日間のロングジャーニーも飛行機でたったの2時間とはなんとも複雑な心境だ。

あっという間に到着したブリスベンは常夏のケアンズから一転、冷たい雨の降る冬だった。厚着はすべて日本に送っていたので、ロンT一枚で街の図書館の片隅で震える体を小さくしながら深夜のフライト時間をひたすら待っていたのが強く印象に残っている。

こうして僕は2010年9月5日23時20分発のクアラルンプール行きの飛行機にて、東南アジア6カ国陸路一周の旅へと旅立ち、全295日・走行距離3万キロ以上におよぶオーストラリア東海岸縦断の旅は終わった。

それはもう二度と戻らぬかけがえのない日々。生きる事、そして旅する事を真正面に捉え、その答えを探して僕なりに精一杯駆け抜けた。腹の底から笑い、大粒の涙を流して泣いたダイナミックな「生」の中でその答えは目の前に現れては消えていき、捕まえたと思えば姿を変えてすり抜けていった。

そしてその答えは未だ手に入らずじまいだ。だがきっとそういうものなのだ。それでいい。だからこそ僕の旅は続く。世界へ、そして自分の内面へ。そんな旅を通して得られた経験が、世界で今この瞬間にも起きている暗闇の現実に差し込む一筋の希望の光となるならば、きっと僕の旅に終わりはないのだろう。

最後に、フライト待ちのブリスベンの図書館でiPhoneのメモappに書き残した短い日記をそのまま転用してこの旅ブログ「THE FLOWING LIFE」のオーストラリア編を締めくくろうと思う。

全ての生きとし生けるものが、すばらしい「今」を感じる事ができるよう祈りを込めて。

2011.3.23  FLOWSHA

遂に今夜23時過ぎにブリスベン国際空港からマレーシアはクアラルンプールへと旅立つ。その後約2ヶ月をかけてタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナム、カンボジアを廻り、11月9日に帰国する予定だ。今日がオーストラリア最後の日。正直、まだ実感が湧かない。去年の11月にゴールドコーストinして、バイロン、ニンビン、シドニー、キャンベラ、メルボルンそして再び北上し、最終地ケアンズまで走り切った。盗難事件や過酷な車中生活、様々なアクティビティへの挑戦を通して得た新たな自己表現、瞑想修行によって学んだ他に対する無償の愛の気持ち。そしてかけがえのない様々な人々との出会い。日本出国前に思い描いた、ここAUSでやりたかった事以上の経験を実体験を通して得ることができた。そして今日で一つの旅が終わり、新たな旅の始まりが、すぐ目の前で僕を手招いている。きっと「ありがとう」と「バイバイ」を繰り返しながら人生の旅は続いていくんだな。じゃあ、元気に行ってきます!

シェアハウス生活とバックパックen

■あとがき

このブログは2009年11月14日から2010年9月5日までの295日間の僕のオーストラリア東海岸横断の旅の記憶している限りの全記録です。2009年11月からスタートして旅を続けながらリアルタイムに執筆を続け、帰国後の2011年3月に1年4ヶ月の歳月をかけ完成致しました。

2010年4月中には無料にて電子書籍化する予定です。またできれば年内に続編である「東南アジア6カ国陸路一周放浪の旅編」も書いていきたいと思っております。

長らくご愛読ありがとうございました。そして長文乱文誤字脱字お許し下さい。僕の旅の記録が皆様の心の琴線に触れ、生きるという事、旅するという事に一瞬でも何かを感じて頂ければ幸いです。皆様の実りある人生、そして実りある“今”を心よりお祈り申し上げます。